小泉毅被告の主張

厚生省次官殺害の犯人ですが、私は彼が逮捕された時から彼の論理の完成度の高さに注目していました。テレビなどでは「思い込みが強い」というような報道をされていますが、もう少し分析的にいえば外界を自分の論理で完全、完璧なまでに再構成する傾向にあるということです。

彼の中ではどうも

  1. チロを殺した犯人は保健所職員である
  2. 保健所職員は保健所の意思に従って行動している
  3. 保健所は厚生省の管轄である(正確には厚生省の所掌する法律に依拠している)
  4. つまり保健所は厚生省の意思に従って行動している
  5. 厚生省の意思を決定しているのは厚生省の役人である
  6. 厚生省の役人を動かしているのは事務方トップの事務次官である
  7. これらを論理結合するとチロを殺したのは突き詰めれば事務次官の意向である

という論理展開がなされているようです。

こういった論理展開を行う能力は、その場の気分に左右されやすい凡人にはなかなか備わっていませんし、私はそこまで自分の中で論理構成し、それを基準にして毅然と行動する人を尊敬しています。こういうことは並大抵の勇気でできることではありません。特に「無罪を主張する。私が殺したのは人ではなく心が邪悪な魔物」と主張した際に「動物の尊い命を奪ったことに対してまったく罪悪感を感じないのを魔物という」と自分で言葉の定義までして、内部における論理的整合性を完璧なまでに高めていることに成功している姿は一種の快感すら覚えます。

小泉被告の姿を見ていて、私の中にふと頭の中に思い浮かんだのは彼と中央官僚との類似点です。というのもご存じのようにエリート官僚は国会答弁や政策決定などに於いて、答弁内容の論理的整合性に頑なにこだわる傾向があります。一度、こういう答弁をした以上それと論理矛盾を起こすような政策はどれだけ民衆や業界の批判があってもしようとはしませんし、その完全性を守ることが自らのアイデンティティだと思っている節があります。国会において大臣が読む答弁書を書くときは、必ず過去の答弁や通知を参照して論理矛盾がないかをチェックするのが当たり前ですし、時には他省庁と政策の整合性を合わせるという作業を一夜にして行います。国会の時期に深夜帰宅が多くなるのは、決して膨大な答弁を書いているわけではなく(質問の中で当該課に関係するのはごく一部です)、一言一句にそういった気を配っているからなのです。こういった論理的整合性にこだわるエリート官僚の持つ一面を、とことんまで突き詰めると小泉被告のような人間になるのだろうなと思いました。彼も官僚もある側面では非常によく似ていると思います。

あと裁判報道では出てきていませんが、私は彼はPDDの疑いがあるのではと考えています。いわゆるアスペルガーや類似の発達障害があるのではないかと。その根拠は

  • 自分の論理で物事を捉え、それしかないと思いこむ性格
  • 遠い過去の外傷体験が裁判中にもフラッシュバックに近い現象を起こしていること
  • (不適応から二次的に生じたと考えられる)世間への強い恨み
  • 聴覚過敏による近所への頻回なクレーム
  • 些細なことへのこだわり(起訴状朗読で手元の資料と少し違う朗読をするとそれを指摘したり、鑑定医との面会が11回でなかったことを指摘したり)
  • 言葉を額面通り捉える傾向
  • (おそらくコミュニケーション障害により)会社勤めが長続きせず転職を繰り返している
  • 数学や物理に強く、国語が大の苦手(おそらく論理的なものは得意だが、他人の心を読むのが難しい)
  • 数字へのこだわり(1000頭の犬、1000%死刑、4人のうち1人しか殺せなかったから25点、被告人が直接質問した際の面接回数についてのやりとり)

これらを考えると統合失調症双極性障害などの精神病は疑いにくいですが、PDDの可能性は大いにあると思います。鑑定書の中身を見ていないので分かりませんが、幼少期の様子についてどこまで鑑定医が踏み込んだ面接や質問をしたのか、私には疑問に思えるところがたくさんあります。鑑定時間も9時間程度では不十分でしょう。ちなみにPDD傾向の人は官僚や医師、法曹などのエリートにも多いとされます。何を隠そう、私もその傾向があります。

批判を受けることは覚悟で言いますが、私は彼の完成された内部論理は身勝手なものでも何でもなく物事を普通の人とは違う方向から捉えた時の一つの正しい見方なのだと思います。例えるなら、長方形のベニヤ板を立てて、その形を当ててもらうようなものでしょうか。普通の人は正面や斜め前から見るので「長方形」と答えるわけですが、彼はベニヤ板の真横からその板を見ているので「直線」と答えるわけです。当然、ベニヤ板は見方によって長方形にも平行四辺形にも、直線にも見えるわけで、この答えは決して間違っているわけではなく、ただ物事の見方が普通の人とは違う独特なものであるというだけです。その点でいえば「長方形」という答えも「直線」というこたえも単なる一つの見方にしか過ぎません。「長方形」が絶対的正解である保証はどこにもない。彼にとっては「直線」、すなわち「下っ端に愛犬を殺させたマモノを殺すのは正義である」というのは真であり、唯一の正解なのです。

そういう視点でこの世間を見直してみると、小泉被告も多くの普通の人々も同程度でしかないと言えます。彼は「直線」しか答えがないといい、普通の人々は「長方形」しか答えはないと言う。そして、お互い違う答えをいう者同士を「トンデモ」「マモノ」であると思い込み、批判している。でも本当は視点によってたくさんの正解があるのです。最近流行りの異文化交流と全く同じことです。彼は我々とは異なる文化に住む人なのです。彼も多くの人も異文化交流ができていない。一番全体を見渡した捉え方というは「普通の人の捉え方ではこの事件は悪だが、彼の捉え方では善になる」というものだと思います。裁判官を含む事件関係者もマスコミもそういう見方ができるようになれば、大したものだと思いますし、尊敬しますね。

彼は「人を殺してはならない」という多くの人が持つ価値観をベースに作られ、施行された法律を侵しました。法律という視点でこの事件を捉えれば、それは罪であり悪であり刑罰が必要です。当然、この事件にも法律に従って刑罰を科すべきです。しかし、彼の論理あるいは過激な動物愛護家(どこかの捕鯨反対活動家も似たようなことをしているわけで)という視点でこの事件を捉えれば、それは正義であり、正解です。裁判というのは絶対的な善悪を判断する場所では決してなく、あくまで「法律」に照らしたときの善悪を判断する場所でしかない。そのことを我々は常に認識しておく必要があると思います。そういう多面的でポストモダニズムな考え方ができないと昨今の「不可解」と言われる社会や犯罪は理解できないと思います。

私は自分と他者との捉え方が違うことが多いという経験則を合理化するために、そういう相対的な捉え方を常にしているので、今の社会を「不可解」と思うことはあまりありませんね。そういう人もいるのがこの世の摂理であると。私の中でも一種の論理は完成されています。