民主党関係者の卑怯さ

他人に疑惑がかけられたり、不誠実さが見られた時には、周囲に同調して他人を批判するが、逆に自分がその立場になると一転して、かつての自分の行動は棚に上げ、疑惑を追及する人やそれに同調する周囲を批判する。
こういうことほど人間の正義に反することはありませんね。私の価値基準の中では殺人を犯した犯罪者よりも極悪非道です。こういうのを卑怯(ひきょう)というのです。

もちろん、こういった非日常の出来事というのは実際に体験してみないと分からない面もあります。新聞でみる不正や疑惑・・・その問題に目を向けたこともない第三者が「とんでもない」「その組織の人間は全員くず」というのはとても簡単ですが、実際に自分がそういう立場に置かれた時に思ったように行動するのは困難を極めるのもまた事実です。中にいるとどうしても完全に客観的な立場を保てないということもあり、不正や危険に気付かないこともあります。

だから、私は新聞の疑惑や不正を見ても「中の人間である限り仕方がない面があったかもしれない」と批判対象を擁護する立場の人にはある程度理解を示しますし、また彼ら自身が疑惑の渦中の人となった時に「仕方がなかった」と釈明したり疑惑を追及する人を批判すること自体は何ら問題がないと考えています。たとえそれが殺人やクーデターのような重大犯罪の疑惑であったとしてもです。

なぜなら、その論理が(ある社会におけるある時点の価値観の平均値にしか過ぎない)倫理に反することはあっても、論理自体には一貫性があるからです(厚生省事務次官殺害事件の時に指摘しましたが、いわゆる学術的論理ではない「論理」は本人の中でその内部整合性が保たれていればいいのであって、それが社会として正しいか間違っているかは全くの問題外です。小泉被告の論理に一切の矛盾がないのなら、その論理体系は反社会的であっても一つの個性として認められます。もちろん、日本国内に住む者は自身の価値観に反しているとしても日本国の法律が適用されますので、システムとして法律違反の代償は払ってもらう必要がありますが)

また、実際に自分がその立場になって初めて当事者として対処すること困難さに気付き、過去の自分の発言を撤回したり、その発言に足りない部分があったことを反省したうえで、改めて批判する人々や周囲を批判する。これも十分許されることです。人間には常に知らないことがあり、彼は自分が当事者になってみることで自らの無知を自覚すると同時に、新たな知を得て新しい論理を構築するのですから歓迎すべきことです。

しかし、自らのことは棚に上げたままにしておくということは決して許されることではない。同じ目にあった他人にはひどい仕打ちをしておいて、自分がそういう目にあったらその仕打ちを批判する。これは論理の一貫性が消失していると同時に、他の同じ目に合った人を裏切り、さらには自分の行動が自分を否定していることに気づいていないことを意味します。こういうのをまさに自分勝手といいます自民党議員や一般犯罪者に疑惑がかけられた時には検察批判、リーク批判は一切せず、他人と同調して「とんでもない」と論評したり、リークを利用して追及に加担しているにもかかわらず、自党の幹部に疑惑がかけられた途端に過去の自らの言動を省みず検察批判をしたり、リーク批判をする一部の民主党関係者は自分勝手であり、こういう自分勝手な人が政治の中枢にいて、さらには政権与党であるというのはおぞましいことです。私の記憶の中ではあの自民党ですら、ここまで卑怯で自分勝手な人はそういなかったと思います。私はこんな人間がウヨウヨいる政党に喜んで票を投じる人々の価値観を疑いますね。