新しい価値体系の構築を目指して 〜プロローグ〜

このブログを見ていただいている方は、通りすがりの方を除き、ほとんどの方は理解していただいていると思うのですが、私は常に「これからの時代の社会の価値体系」はどうあるべきかということを考えています。大量の思考・精神エネルギーを費やしてまでこういうことを考え続ける目的は、より不確実性が増す現代社会において発生する様々な「おかしな」出来事を、可能な限り一般化された法則・原理の上に乗せ、自らの中における納得可能性を高めることにあります。

なんのこっちゃと思われるかもしれませんが、私はお付き合いのある臨床心理士から、自分が(Drとして)精神神経科神経内科のどちらの道に行くべきか迷っているという話をしたときに、三宮のバーでこんなご指摘を受けたのです。
「あなたはよく分からないものを「分からない」ままにしておくタイプではなく、なんとか分からないなりに自分で色々な解釈を試みて、法則や規則を考え出して納得しようとするタイプでしょ。なんとなく見ていてそんな気がする。精神科はあまりに「分からないもの」を扱っているがゆえに、時に患者を「分からない」まま長期にわたって放置しておかねばならない場面がよくあるんですよ」

私はこの一言を「臨床の精神科には向いていないんじゃない?」あるいは「たとえ向いていたとしてもそのことで苦労するだろう」という意味で捉えたのですが、それはさておき、この指摘は非常に的を得ていると思います。その代表例が、高校時代に数値と文字列の羅列である「シミュてつ」路線ファイル構造をある程度解読したことでしょうか。また、「分からないものを解読したい」というこだわりが人一倍あるからこそ、大学に入ってすぐに3年ほど研究室に入り浸りになったのでした。要するに「研究者向き」ということなんだろうなと思います。

これは私の特性とも言うべきもので、現実では色々弊害もあるでしょうが、自分では誇りに思っています。この特性がなければ私は私ではない、とも思います。そういえば、精神科のBSL中にお世話になったレジデントに「統合失調症の「統合」ってどう解釈すればいいんでしょうね。症状としてこうなるとか、生物学的にはドーパミン仮説だとかは分かるんですが、高次脳機能の何をもって「統合」と定義するのか。社会的事情があって精神分裂病から名前が変更されたことは知っていますが、統合失調という言葉を聞くたびにそのことが非常に気になるんですよ」という話をしたときに「僕はそのことでは悩まなかったけど、君は根源的というか原理的なものを大事にするタイプなんだね。それが君自身の大きな特性であり個性だよ。それを大事にしなさい」みたいなことを言われましたっけ。

あくまで推測ですが、私の場合は「分からない」ものが既存の「分かっている」法則や規則とは全く独立して存在しており「分かる」気配すらない時は、強い不安といらだちを感じると同時に、それを丸裸にしてやりたいという攻撃願望(=野心)が働くのだと思います。なので逆説的に「分からない」ことに対して非常に強い好奇心・興奮感を抱くのではないかと。そして、それをとりあえず根拠の乏しい仮説でも、例外つきの法則でもいいから説明できる形に納めてみる。その作業を通して少しでも「分からないもの」に近づいていく。そこに快感を覚えているというのが本当のところなんだと思います。

まあ、そんなわけで私は上記のような特性を持っているので、患者の病態や科学的なことだけでなく、社会に対しても全く同じように、莫大なエネルギーを使ってでも日々発生する不可解な出来事に対してより一般的な原理・法則を考えだし、自分が納得できる形にしていきたいのです(これを「合理化」と呼ぶことにします)。逆にそういう作業をしないまま、すべてを「不可解」のまま捉えていると精神的に持たないのだろうと思います。

確かにこういう作業はエネルギーを無駄に消費するのですが、それなりにある程度の成果も出ていています。その成果は「私の価値観」として時々このブログにケース(=犯罪や事件)を通じて発表しているので、いくつかのエントリをよく読んでいただければなんとなく分かってもらえるはずです。

もちろん、自分でも分かっていますが、この「私の価値観」はそういったケースを「不可解」あるいは「トンデモ」とする「一般的な価値観」とはズレているので、かなりの批判があります。でもこのズレは「私の価値観」の成立過程を見れば当たり前ことで、むしろズレていない方が成果薄ということになります。旧来の「常識」に囚われた人々からの批判は覚悟の上でやってますから。(私は原則として後悔をあまりしないタイプです。後悔するぐらないなら次や教訓を考えろ、やる前に覚悟を決めろというタイプなので。「電車の一番前でかぶりつくなら、事故った時に死ぬことぐらい覚悟しろ」という感じですかね。まあ相当確率低いのは分かってますので、それに応じた程度の覚悟ですがね。好きな飛行機に乗る時でも、毎回もしもの時の死は覚悟しています)

しかしながら、多くの人が固定した常識にとらわれ過ぎていて「最近はとんでもない事件ばかりで恐ろしい社会になった」と嘆くのを見ていると、「この人々は何も分かっていないんだな」と思わずニヤッとしてしまいます。合理化されている私にとっては決してとんでもない事件ばかりでもないですからね。

プチ優越感のほかに、合理化のもう一ついいところは、その事件に対して強い怒りや無力感を感じなくていいところです。最近の世の中はあまりにギスギスし過ぎています。世の中が無意味で非生産的な怒りと嫉妬で充たされている感じがするんですね。悲惨な事件があるとすぐに「死刑にしろ〜」とわめく人々がいますが、こういうのが典型です。実のところこういうネガティブキャンペーンはその事件の関係者だけでなく、少なからず社会全体を同じような怒りと嫉妬の悪循環に陥れる効果を持っています。

マスコミが官僚バッシングや医療バッシングを始めたころから、その意図とは逆に役所や病院の体制、雰囲気は相当悪くなりました。ネガティブキャンペーンを信じ込んだのか、利用しているのか分かりませんが、何かあるとすぐに「官僚のくせに」とか「医療ミスだ!」と叫ぶ市民や患者がいれば、当然役人や医師も気分を悪くします。あまりにしつこい人がいると、彼らも防御策を取らざるを得なくなり、対応がどうしても事務的でやや距離感の遠いものになってしまいます。昔は「安心しておれに任せとけ」と胸を張る外科医は多かったものですが、今では慎重に「こういう合併症の可能性もあります」ということを延々と言われます。そうなるとそこにさらに不信や不満を抱く人が増え、上記の悪循環が加速されます。トラブルや訴訟は減っても雰囲気はよくはならないのです(時々ICレコーダーの隠し録音とか、学生から見ても嫌な雰囲気を感じます)。救急医療の崩壊などは「割り箸事件」に始まった悪循環の顛末でしょう。

そういう点でも、多くの人が怒りや拒絶感を感じる犯罪や事故などに対して合理化を図り、「この事件は不可解でも何でもなく、十分にありうることなんだ」という解釈に至ることで発生する怒りを低減させることは積極的に行うべきであるし、社会的にもよいことなのです。さらに、怒りを低減させて冷静な目で事件や事故を眺めると、(大抵昔はごく普通だった)加害者側がなぜそういう行動に至ったかという環境要因に自然と目に行くようになります。ばらつきが激しい人間の気合や注意力にはあまり期待せず、環境要因を変えることは同種事件事故の再発防止に直結します。環境要因によって人はいくらでも変わりうるということが分かると、他山の石にもなりますしね。

こういったことができない間は、日本はいつまでたっても暗いままで怒りと嫉妬に満ちた寂しい社会に落ちぶれていくだけです。今こそ既存の価値観を大きく変えていくことによって、「怒り、非難、嫉妬」から「許し、肯定、相互理解」への転換が必要な時なのです。その道筋を日常のケースを通して時々ですがお示ししたいと思います。