新しい価値体系をめざして 〜ケース1優先座席を譲らない若者〜
先日、大回りをしていると新快速の中でこんなケースを見かけました。
大きな荷物を持った20代後半のツンとした感じの女性が2人で優先座席となっている4人席を占領しています。彼女らは網棚ではなく、自分の隣の座席に荷物を置いていたのでした。電車は大阪駅に到着し、たくさんの人が乗ってきましたが、彼女らは席を譲ろうとはしません。乗客も高槻(10分程度)か京都まで(25分程度)の乗車が多く、短距離のため特に彼女らに席を要求する人はいませんでした。ところが、一人60代後半ぐらいの男性が(イメージとしては馬券を買いに来たような感じのおじさん)がどうしても座りたかったらしく、「そこ空いてるやん。荷物どけんかい」とぶっきらぼうに彼女らに言いました。彼女らは最初は無視していましたが、何度か言われてしぶしぶ荷物をどけ始めました。周囲の人は一切何も言いません。そのおじさんは結局席につくことができたのですが、彼女らは吐き捨てるように「一体何様やとおもってんねん!」「ムカつくわ〜」とつぶやいたのでした。
さて、こういうケースを見た時に皆さんはどんな考えを巡らせるでしょうか?
- なんや最近の若者は!優先座席やのに2人で4人分の席を占領して!さらには暴言を吐き捨てるなんて、とんでもない!おっさんがかわいそうや
- なんやあのおっさんは!特に体が悪いわけでもないのに、頭ごなしに席を要求して。彼女らが暴言を吐き捨てるのも理解できるわ
- なんや周囲の人は!おっさんが困っているのに何も若者に注意しない。こういう事なかれ主義の文化だから今の社会は悪くなるんや
- おっさんは言葉遣いが悪いし、若者や周囲の人は悪いのは当たり前だが、これが今の社会の現実。しかたがない。一つ言えることはこんなことになったのは今の政治が悪いからだ
- その他
だいたい、私の予想では8割ぐらいの人が1〜4のうちのどれかを選ぶであろうと推測します。2番はやや少ないでしょうか。旧来型の価値観に照らし合わせると1番か3番が多くなるでしょうね。やや新しい考え方を持った人は4番を選ぶでしょう。
「新しい価値体系」ではどうでしょうか?まず1〜3は批判主義的です。ある一つの立場に立ってどれかを一方的に批判していますが、その立場に固執するあまり「じゃあもう一つ別の視点で見たらどうなの?」という部分が完全に抜け落ちています。これは公平な判断とは言えないです。悪い考え方ですね。
4はある程度客観的に事件を見ている感があり、公平な判断をしていると思いますが、その責任を根拠もなく自分以外の「政治」に転嫁しています。果たしてこれは普段は縁遠い政治の責任なのでしょうか?政治をかえれば変わる話なのでしょうか?
というわけで、新しい価値体系では5を答えにします。具体的には以下のよう(あくまで一例ですが)に考えます。
まず、おじさんの側からみてみると「自分は高齢者だから優先座席に座る権利があり、それは万人共通の常識だ」という考えが根底にあることが分かります。さらに「年寄りは若者より序列が上である」という考えもあるようです。その思想背景に基づき、彼女らの優先座席を占拠する行為は常識外れであり、頭ごなしでも席をどかせるべきだと考え、上記のような行動をとったのだろうと。
一方、若者の立場からすると「自分たちは先に席をとったのであり、鉄道会社が勝手に優先座席と名付けようがそんなものは関係なく、原則は席を先にとった人に優先権があるのが常識だ」という考えがあります。また、「向かい合う4人席に対面して座った途端、準個室的(コンパートメント)な空間が生じるので、他の人は空気を読んでそこに入ろうとすべきではない。入る時は礼儀をわきまえるべきだ」とも思っています。これらの思想背景に基づき、準個人空間に礼儀もなく入ってきたおっさんの行為はKYであり、さらには頭ごなしにしかりつけるのは我々をバカにしていると考え、上記のような行動に至ったのであろうと。
そうやって考えればお互いの行動や言い分はよく理解できる。このトラブルの背景には異なる世代間、個人間での常識の違いやその違いを互いに認識できていないことがあるのだろう。価値観が多様化する社会に於いては当然こういったトラブルは起こる。こういったケースの一つの解決策としては、先に形成されていた状態に介入を加える側であるおじさんが、彼らの個人空間やプライドに配慮して「座りたいので席を空けてもらえる?」とやや下手にでればお互いに円満に解決できたのではないだろうか。
と、まあこんな感じで複数の視点を駆使し、さらにはメタ認知も加えて分析的に物事を考えていくのが「新しい価値体系」です。そして、ただ分析をしたり、過去に向かって後ろ向きな批判ばかりをするのではなく、「じゃあ同じことが次に起こったらどうすればいいのだろうか?」「同じような状況を防ぐためにはどういう環境にすればいいのだろうか」という再発防止や改善といった未来に向けた前向きなことを最優先に考えていけば、なんともいえない怒りも収まるし、明るくこの事件を捉えられるんじゃないでしょうか。
これがポストモダン社会に於いて新しい価値体系をめざすということです。なんとなく外国人と接するときのような感じに似てますね。もともと大きな物語の下では、ある国民文化というのが大体は画一化された価値観すなわち「常識」のもとで形成されており、異国人すなわち異なる「常識」の間のトラブル解決予防法として異文化コミュニケーションという手法が構築されたのでした。しかし、現代社会は価値観の多様化に伴って「常識」の単位が国家や民族から個人にレベルダウンしており、個人間で常識が大きく異なるという事態が発生しています。そんなわけで、他人と接する時は外国人と接するような態度で接すればトラブルは発生しにくいのです。一方であまりに「常識」が規則も何もなくその場でコロコロ変わるようなものであっては異文化コミュニケーションすらできないので、個人には「その人にとっての常識」の確立が求められます。つまり論理の内的整合性が求められるのです。以下の表が今日のまとめです。
近現代の日本 | 今の日本 | |
時代背景 | 大きな物語(モダン) | 小さな物語(ポストモダン) |
常識の単位 | 国家・民族 | グループ・個人 |
常識の決定プロセス | 個人による多数決 | 内的整合性の担保 |
優先すべきこと | 常識外れの駆逐 | 常識間のすり合わせ手法の開発 |