「診断をつけない」ことの重要さ

最近、不況系でいろいろな資格が取れる学部の人気が上昇しているようですが、日本の法律では過去の規制主義、事なかれ主義の遺残か、資格に健康の欠格事由がついてものが多くあります。特に厳しいのは航空身体検査で、パイロットや一部の地上職に適用される検査なのですが、検査をできる施設が限定されている上、不適格となる疾患を見たら年を取ったら誰でもなるだろうという病気がたくさん並べてあります。落ちたら地上にも被害がでるという観点からすれば分からなくもないのですが、コントロール不良のてんかん精神疾患SAS、心臓発作の高いリスク等を除けば(要するに意識消失をきたしたり正常な判断を到底保てない高いリスクがある場合を不適とする)、別にいいんじゃない?という気もします。アメリカなんかははるかに基準が甘いようです。

むしろ、厳しすぎる基準ゆえに違和感を感じても医療機関に行かなかったり、病歴を隠したりする方がよっぽど怖い(実際新規航空会社でそういうところがありました)。無治療だし本人も自覚が薄れますからね。日航の「逆噴射」のパイロットも医療機関に行っていなかったがゆえに、統合失調症のコントロールができなかったわけです(シゾの場合は病識がない場合も多いのですが)。ちゃんと治療を受けていて日常生活を送れていればOKとするのが、妥当なところだと思いますが。高脂血症の薬でもはねられることがあるというのは、貴重な人材を無駄にしますし、デメリットの方が大きいと思います。今の時代の考え方は「病気=悪い、なくすべき」ではなく「病気=誰もが持っていて、付き合うもの」ですからね。有る無しよりも、うまく付き合えているかどうかがはるかに重要です。だいたいある病気がある、にしてもその程度はほとんど正常の人から、日常生活が送れない人まで色々ですから。

人口が少ない航空身体検査はともかく、他にも医療介護系の職種には健康上の欠格事由がついていることも多いです。つい最近になってようやく改正されましたが、医師免許には絶対的欠格事由として盲聾唖の人には免許を与えないとされていたのです。確かに日常現場でこれらの障害があると普通に働くのは厳しいですが、自分で適切な科を選んだり内容に配慮すれば医師として働くことは可能です。臨床医は無理でも研究医という手もあります。

資格の人気が高まるこのご時世ですから、理想論としてはこういう健康系の欠格事由は原則廃止すべきだと思いますが、中央省庁の事なかれ主義では、(確率的には相当低くても、避けえない)事故があった時に責任を問われるので完全撤廃というのも難しいのも事実です。

そういう状況下では医師としては、疾患があってもコントロール良好でほぼ正常に日常生活を送れている場合は、資格や職業、保険加入のことを考えてあえて「診断をつけない」という選択肢が重要になるでしょう。我々、学生は何かと患者を見るとラベリングということで診断をつけたがります。国家試験問題がそういう論理で出来ているからです(典型的な患者情報⇒診断をつける⇒治療薬を選ぶ)。確かに手帳の申請を考えている場合や病識がない場合、他の症状への注意やコントロールを促す場合は、診断をつけるメリットの方が大きいと思いますが、その他の場合はたいがいにしてメリットとデメリットが拮抗するか、デメリットの方が大きいような気がします。例えば病名を告知してしまって本人が病歴を保険会社に申告しなければ、告知義務違反になる。学生の時と同じ調子で臨床現場で働き出すとそういう人を不幸にする可能性があるがゆえに、見立てや疑い、頭の中で診断はたてても、正式な診断を告知するということは慎重になるべきなんでしょうね。保険病名は適当につけたとしても。「〜ですね」ではなく、「〜っぽいですね」という言い方が案外いいのかもしれません。医師も「診断を確定するには疑問があるから」と言い訳できますし、患者は不都合な場で「〜病です」と言わなくて済む。