前原氏も抱えていた自殺問題

前原国交相:「中2の時、父が自殺した」 話せるまでに33年かかった
日本の自殺者は年間3万人、これは覚えていて損のない数字ですが、自殺者の増加に伴って親しい人の自殺を経験する人も増えているようです。前原氏もつらかったんでしょうね。他殺や事故死と違って怒りの矛先をどこかに向けるのも難しいですから。

私自身は先日のエントリでも紹介したように、一時期自殺を考えたことはありましたが、不思議なことに「そもそもなぜ人が死ぬことや自殺が悪いことなのか?」という社会一般で前提とされている価値観を根底から覆すことで、逆説的に希死念慮を克服することができました。また、救急実習で自殺症例、自殺未遂症例をたくさん見て(わずか1週間ちょっとで6人以上!)自殺の現実を知り、自分のイメージとだいぶ違うということが分かったので、たぶんこれからも自殺を考えることはないと思います。自殺するぐらいなら、いっそ他殺を選ぶかもしれませんね。(自殺と他殺は本質的に表裏一体です。秋葉原や土浦の事件でも明らかになったように、死刑になるほど残酷な手口で他殺する人の多くは、自殺してもいいと思っているような人が多いので、死刑制度は根本的に意味をなしません。むしろ、自殺も他殺もしたく、裁判で自己主張をしたい人にとっては都合のいい制度でしょう。精神科の入院適応に「自傷他害」というセットフレーズもありますしね)

それはともかく、私は自身の自殺を考えたことはありますが、幸いなことにまだ親しい人の自殺は経験していません。でも、かなりリスキーな立場にいることも事実です。私の友人には難治性のうつ病などを抱えてたり、その既往がある人が5人ぐらいはいますし、そのうちの最も難治性と思われる1人からは医学生ゆえに「(ベンゾジアゼピン系の)睡眠薬って何錠飲んだら死ねるの?」とメールで質問されることもあります。まあ、つらい思いを受け止める文言、自殺を思いとどまらせる文言と同時に、「数字の上では数万錠ぐらい飲まんと死ねへんから諦めてな〜」とあえて明るく返していますが、まあ正直、いつ彼が別の手段で決行するか不安な気持ちでいることも確かです(このブログは見ていないはず)。なんとかしてあげたい思いもありますが、私も単なる医学生ですし、地域が離れているのでメールでのやり取りやアドバイスぐらいしかしてあげれないのです。(だいたい、友人への吐露というのは一時しのぎにはなっても根本を解決することにはならないので、私はできるだけ専門家を頼るよう勧めています)彼からはこういうメール以外にも何カ月おきかに自殺したい場所の写真とかが送られてきたことがあったのですが、睡眠薬のことを聞かれた時、私は覚悟を決めました。「いつ訃報が入るか分からないが、その時はその時だ。天命だったんだと思うしかない」と。心の準備だけはしておかないと、もしものことがあった時に自分まで巻き込まれかねないですからね。いずれにせよ、訃報が入らないうちはメール上ではありますが、支えてあげたいと思っています。

ともかく、私にとっても自殺問題は結構身近で深刻です。医学生の中には精神的なもの、心理的なものをバカにしたり軽視する人もいますが、私は自身の経験から絶対にそうは思いません。身体と同じぐらい心は大事で奥が深いものです。最後に最近面白い連載記事を見つけたので、そこへのリンクを張っておきます。
現代人に突き付けられた「うつ」というメッセージを読み解く
8人に1人が苦しんでいる!「うつ」にまつわる24の誤解

この連載は精神科医の泉谷氏のものですが、私と非常に考え方が似ているのかなかなか納得する記事が多いものでした。特に「頭、心、身体」の構図は私が考えている構図と非常に似ています。「頭は二元論や合理性をベースとしていて、常に気まぐれな心をコントロールしたいと考えている。両者がバランスが取れている間はいいが、頭が独裁政治を続けると心が反発してストライキを起こす。それがうつの状態。だから真面目な人、強固な意志で感情をコントロールしようとし過ぎる人(=精神力が強い人)がなる」
近頃のブームにもなった二元論(=論理思考)や合理性(=効率性)からの脱却、あるいは共存が必要だということです。

医学生が読むべき記事は、誤解シリーズの「自分なら「ウツ」は必ず自覚できる、という誤解」です。身体化されたうつ症状と考えられる不定愁訴を見抜くことはできるか。内科や外科からは「プシ(psy)」という隠語で軽蔑される心理的要因による身体症状には、うつのサインが含まれることがあります。抑うつ気分だけがうつではないのです。

誤解シリーズの「なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係」には、私が指摘したような「自殺は悪いことである」という道徳規範を捨てることの重要さが指摘されています。

ひたすらに「死にたい」という気持ちを聴くことが可能になるためには、聴く側の人間自身が「道徳」という規範から自由になっていなければならないという問題があります。つまり、「死にたいなんて考えるのはよくないことだ」という一般的な道徳の範疇に留まっている限り、「死にたい」人間の気持ちに「共感」することには原理的な無理があるわけです。

実際に病気の人に読んでほしいのは、同じく誤解シリーズの「「ウツ」が治るとは、元に戻ることではない――新しく生まれ直す“第2の誕生”」という記事です。ここには「うつ」から解放されるには価値観をサナギのように根本から組み立てなおすことの重要さが指摘されています。

この内面的な変化とは、「頭」の意志によって何でもコントロール可能だと思い込んでいた驕りが捨て去られ、大自然の摂理で動いている「心」(=「身体」)に対し「頭」も畏敬の念を抱くようになり、その大いなる流れに身をゆだねる生き方に目覚めるということです。それは、近現代の人間中心主義から離脱するような大きな世界観の変化である

会社のことで悩んでいる人には、メッセージシリーズの「「適応」することが正常?
苦痛も喜びも麻痺してしまう精神的「去勢」」の記事をお勧めします。

体制の側に立って見た場合には、容易に「適応」してくれて体制の役に立つ人間が重宝されるでしょうし、そちらを「正常」として考えることでしょう。しかし、仮にこれを偏狭な独裁者が支配する全体主義的国家の中にでも場所を移して想像してみると、「適応」イコール「正常」と断ずることがいかに危険であるかがわかります。実際、人類の歴史を振り返って見ると国家的犯罪や組織的犯罪などは、常に体制に「適応」した「正常」な人間たちが忠実に責務を遂行した結果、ひき起されたものでした。

朝青龍はまさに上のことを言っていたのかもしれません。