人格は個人のものであって職業のものではない

若い世代はそんなこともないのですが、日本はとにかく「個人」という概念がきわめて薄弱な文化だなということは普段の生活でも感じます。人格や価値観という、一人ひとり違うものですら個人に所属するものであるという大原則が無視され、特定の所属集団や職業の属性とされるのですから、相当問題は深刻です。別に個人主義文化が発展している欧米がよくて日本が悪いとは言いませんが、日本の歴史として明治以降欧米文化をどんどん取り入れて、基盤となる社会システムそのものが個人を前提とするものにしてしまったのですから、日本の古来からの文化をそのまま残すことによる不具合やデメリットというものもきちんと認識すべきかと思います。

さて、朝青龍や国母問題で気になるのはそもそも「人間かくあるべし」というのを職業属性で決めつけようとする人々の愚かさ、不合理さです。原理原則として人格は特定個人のものであることは否めず、また人間の全ての行動は根源的には個人に属するものであり、生物学的にも個人が人間の単位であることは間違いありません。つまり、個人の下位属性として人格が存在するのです。

プログラミングのクラスのように例えれば下のような構図になります。
個人::人格
ここまでは誰もが納得ですよね。

一方、職業もまた個人の属性です。個人の生活をメインタスクをベースとして時間軸で区切れば、「通勤中」「食事中」「就寝中」「個人の自由時間」などと同列に「仕事中」というモードがあります。場所軸で区切れば「職場」「家」「繁華街」などが同列に挙げられますね。また、利害関係のない赤の他人に自分がどんな人間であるかということを紹介する時に個人を特定する「名前」はもちろんのこと、「年齢」「趣味」などと同列に「職業」「役職」というのも紹介します。このことから、職業もまた個人の下位概念であり、決して上位概念ではないことが分かります。
個人::職業

ところがこの論理的に考えて当たり前のことが、日本では当たり前ではありません。かつての江戸時代の身分制度の名残なんでしょうか。いわゆる会社人間と呼ばれる人々に多いのですが、完全に職業::個人になっているのです。よく仕事とは関係ない場面でも「○○会社の課長の〜です」と自己紹介する人があります。この時に「○○会社の課長をやっている〜です」というニュアンスであれば問題ないのですが、「○○会社の課長で、名前は〜です」というニュアンスだと、個人を時空間的に特定する名前よりも、役職の方が上位に来てしまっています。つまり、個人が会社や職業の下位概念になっているのです。商談などで会社の代表という属性を第一に据えている時はともかく、仕事とは関係ない場面でこれはどう考えてもおかしいですね。でも、日本ではつい最近までこの論理的におかしな概念が当たり前のように思われ、むしろ奨励されてきたのです。

ワークライフバランスなどが言われるようになり、仕事は個人の一部に過ぎないということが意識されるようになった昨今でも、その意識は日本人にしみついています。よく言いますよね、「〜さんは大きな○○会社の人だから、こういう趣味は持たない方がいいとか」「公務員のくせにその言葉づかいはなんだ」。このような言説に違和感がない人は意外と多いのではないでしょうか。趣味も言葉づかいも(管理の問題はあったとしても)根源的には個人の属性の問題であって、それを職業問題にすり替えてしまうところに、身分制にも似た非論理的な文化が垣間見えるのです。まさに職業という名を借りた身分制度、それが日本の現実です。

では、所謂「職業倫理」と呼ばれるものと「個人の人格」との関係はどうなのでしょうか?もともと職業倫理は主にプロフェッション、すなわち聖職者、弁護士、医師といった職業で発展してきたものです。これらの分野に共通するのは、高度知識と自由度の高さ、そして密室性です。閉鎖的空間の中で、クライアントよりはるかに高度な知識を持った人間が、誰からも管理されることなく何かをすれば、簡単に人を殺せます。人をだませます。誰も暴走を止めることができません。山本病院の事件が典型でしょう。だからこういった職種には職業倫理が必要なのです。

ですが、これは決して個人のすべての状態に適応されるものではありません。あくまで「職業」倫理であって、「個人」倫理ではない。職業倫理とは、個人があくまでその職業をして業を行うときにのみ適応されるものです。つまり職業::倫理です。また、職業倫理と人格や価値観は別次元の存在であって、相互不可侵の関係です。なぜなら、ある職業人としての評価は現にその職を行っている時の「行動」にあるのであって(たとえば医師なら診察中、弁護士なら相談業務や裁判中)、そういうときの人間の行動は、個人の人格、職業倫理、周囲の環境などの多彩な要因を複合的に反映させた結果だからです。人格も職業倫理も「行動」というファンクションを形成する時に用いられる単なるリソースにしか過ぎないので、相互に侵犯することはありません。上下関係にもありません。もちろん、二つが矛盾する時はあるでしょうけどね。

よって、その職業から現に解放されている休憩中や通勤中、家でのんびり過ごしている時、ネットで個人の意見を述べている時などには当然職業倫理は適応されません。そういった領域にまで言及するような職業倫理は、職業倫理としては越権行為にあたりますし、職業倫理の名を借りた個人倫理の強制でしかなく、即刻削除するべきものです。モードの切り替えははっきりすべきです。

横綱として」とか「日本代表とかして」などというフレーズで取り上げられることからも明らかなように、職業倫理が問題になっている朝青龍や国母問題で思うのは、まず、そもそも相撲やスノボといった競技が、職業倫理が本当に必要な「高度な知識」「自由度の高さ」「(実質的な)密室性」の3要素をすべて持ち合わせているものかということと、問題とされている行為があくまでその職を現に執り行っている時に起こされたものか、という二つの疑問です。

たとえば、朝青龍の問題であれば確かに相手の髷を掴んだり、にらみ合いをするというのは職業上の行為で起こっていることですから問題ではあるでしょう。しかし、モンゴルでのサッカーの問題や居酒屋での暴行はその職を執り行っていないときに起こした問題であり、「横綱朝青龍」という職業問題ではなく、「ドルゴルスレン・ダグワドルジ」の個人問題です。また、土俵上の行為にしても確かに自由度の高さと高度な技能はありますが、大多数の観客の前で行っており、いつでも咎められることなので、管理者である行司などがルール違反として対処すればいいだけの話です。これを職業問題にしてしまう文化の方がむしろ非論理的で異常と言えます。むしろ、その点でいえば元時津風親方の方がよっぽど職業倫理を求められる立場にいます。あの事件もやはり密室の中で起きたものでした。

国母の事件はもっとひどいものです。別に彼は競技や開会式で問題を起こしたわけでもなく、単に移動中に問題を起こしただけです。報道陣の取材はあるでしょうが、別に本人が望んだわけでもなく勝手に報道陣がカメラを構えているにしか過ぎません。それで競技出場が危ぶまれるというのはどう考えてもおかしなことです。

このような愚かなことが当たり前のようになっている背景には、やはり個人と人格、職業の属性関係を論理的に組み立てず、過去の身分制の亡霊に縛られている日本の特に中高年層の問題が大きいと思います。善良な若者は彼らにだまされないように気をつけなければなりません。

さらに、もう一言付け加えておくと職業を個人や人格より上位においてしまうことは非常に危険な行為であるということを自覚すべきです。うつ病になりやすい人の一つに「会社人間」が挙げられています。特に定年後。職業が人格や個人を上回っているために、定年で職業がなくなった瞬間、個人や人格も一緒に失ってしまうのです。また、会社人間は実際にうつ病になった時にさらに本人を苦しめます。会社や職業がすべてだった人にとって病気で仕事がまともにできないということは、「自分には人間としての価値がない、生きる価値がない」ということにもなります。「生きる価値がない」ということは自殺につながりやすいということで、全くいいことがありません。「自分は自分、会社とは別」という確固たるものを持つことは重要です。