KYとコミュニケーション能力が病気を生む

現代日本には非常に罪深い概念が二つがある。
一つはKYで一時話題になったが「空気を読む」という概念
もう一つは近年、入試や就活で頻繁に目にする「コミュニケーション能力」という概念

今や当たり前になったこの概念が現代において、軽症うつ病を爆発的に増加させる大きな圧力になっていることは否めない。なぜなら、最近の新型うつ病、あるいは軽症うつ病の病理は、かつての勤勉さに過剰に執着することでうつ病を発症させたメランコリー親和型のそれとは異なり、刻々と変化する場面への過剰な同調圧力が人間ならだれもが持つ双極スペクトラムを前景化させたことによる結果だからだ。

単純に考えて、刻々と変化する場面に「空気を読んで」同調するということは少なくとも外面的な気分を双極的に変化させることと同義である(反KY社会では悲しい話題の時は悲しんだ気分で、楽しい話題の時は楽しい気分で話題に同調することが求められる)。したがって話題に合わせて気分を変える能力、すなわち社会的には「善」とされるコミュニケーション能力が高い人ほど、少なくとも外面的な気分が安定することはない。

もし、このような人のすべてが内面的な気分と外面的な気分をうまく使い分けることができるなら、うつ病を発症することはないだろう。しかし、定まった価値観が喪失したポストモダン社会では唯一価値の足場を置くことができるのは刻々と変化する外部の環境だけであり、往々にして内面的な気分は外面的な気分に幾分の位相の遅れを以て同調していく。場当たり的なコミュニケーション能力の高い人の一部に外面的な気分と内面的な気分をうまく使い分けられず、外因によって強く規定される内面的気分を持ったり、無理をして外面的気分と外面的気分を解離させるものが存在したとしても何ら不思議ではない。彼らは往々にして身体と内面的気分の間で、あるいは内面と外面の気分の間で不適合を起こし、うつ病を発症するであろう。

そこに追い打ちをかけるのが、生命が生まれて以来、引き継いできた人間が持つ周期性(双極性)である。地球上で生命が生き残るためには外乱に対抗して身体を一定の状態に保とうとするホメオスタシスと、日中太陽からの強い紫外線を避けたり、エサのない時期は冬眠して過ごすといった周期性(常に変化するという意味では広義のトランジスタシス)の両方を持ち合わせる必要がある。事実、人間の体では主にはホメオスタシスを維持するために様々な場所でネガティブフィードバック機構が働いている一方、性周期やメラトニン分泌に代表されるように局所局所において周期的なリズムを作り出すためにポジティブフィードバック機構も働いている。

人間の気分も脳という器官に物理的存在を依存していることからして、気分にもそれを一定に保とうとするホメオスタシスとともに(主に冬や夜には活動度を低め、昼や夏に活動度を高める目的で)周期的に気分を変動させる機構が働いていることは想像に難くない。この二つの機構は誰しもが持っているものであるが、内因的にその二者バランスが後者に偏っている、すなわち周期的あるいは双極的な作用が高まっているとすれば、外からもたらされた気分の変化に対して微分的に気分が反応するため、わずかな外因による変化が想定以上に気分に対して大きな変化をもたらす可能性がある。

新型うつ病では例えば土日は気分が高まるが、月曜になると気分が落ち込むという例がよく取り上げられるが、これは外因が内面的な気分に反映しやすくなっているポストモダン的な社会背景と同時に、内因的に気分の周期性が亢進していることによる気分易変性が追いうちをかけた結果であると解釈することも可能であろう。

すなわち新型うつ病には内因的な因子と外因的な因子の両方が影響しているのではないかと私は考えている。新型うつ病の発症防止を考えた時に、内因的なものは生物学的基盤を持つためになかなか変えることができないが、外因的なものは社会さえ変わればいくらでも変えることができる。常識的に考えてもメランコリー型うつ病が減り、新型うつ病が増えた原因は内因的因子よりかは外因的因子の変化(時代背景の変化)によるところが大きい。

結局のところ、うつ病の増加で社会が困っているというならば、その社会自体を変えることが最も手っ取り早い解決策だと私は思う。すなわち「空気を読む」ことをやめる社会、少なくとも最善としない社会である。