感情移入のレベル

友人との議論&「異文化交流」から
私の場合、小説や映画への感情移入というのはあくまで限定的なものにしかなりません。もともとフィクションだという前提でこれらの文化を消費しているし、どれだけ登場人物の心理状態に共感できたとしても、結局「作品を読んで共感している」自分を認識している自分の存在は消しきれないからです。そういう点で、厳密な意味では私は完全な感情移入というのはしたことはないし、もともとバリエーションとしてできない体質だとも言えます。共感ならできたとしてもね。

私が小説をあまり読まないのは(というか読めないのは)、結局読んでも共感できないか、共感したとしてもすぐに「この人物はこういう面では僕に似ているかも」という客観的視点のゆり戻しが来るので、情動的に「楽しい!」と思えるレベルまでの入り込みができないからなのかもしれません。どちらがいいか悪いかは微妙なところですけどね。常に客観的視点を忘れないのと、完全に心理状態をシンクロさせられるのと。

ここで疑問なのが、この世の中でどれだけの割合の人間が「読んでいる自分」の存在すら忘れてしまう、ある意味登場人物との一体化に達するレベルの感情移入をしているのかということです。要するに「何が普通か」ということを知りたいということです。誰か教えてください。

ひきこもりとか

この本、ちらっと中身を見て一目ぼれで買ってしまいました。かの有名な斉藤環先生の本ですが。ロリコンとかをまともに考察していたりして興味深いです。

博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理

博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理

辺野古移転で示された民主党政治の本質

普天間基地移設問題は様々な激論と感情的しこり、連立の危機という大きな代償を残したまま、自民党政権が決めたのとほぼ同じ「辺野古」に移転されることとなりました。このことから分かることは

  1. 理念先行型の政治に於いて
  2. 政権与党内で意見がバラバラであると
  3. 新たに無用な対立を生みながら、原案と似た結果になる

という教訓です。

医療事故調を含め厚労省施策は、官僚とうまくやっていけない長妻厚労大臣のもとで、理念先行型の足立政務官がすべてストップをかけているようですが、医療事故調にしても民主党内の意見はバラバラ。私はこの問題は紆余曲折を経た結果、全く何も決まらずに廃案になるか厚労省原案と近いところで収まるのではと考えています。

そもそも事故調の設立目的は、医療の安全推進という建前と医療事故に司法を関与させないという本音の二本柱でした。しかし、後者については司法サイドが猛反発。結果として原則として司法は介入しないが、著しく現行の医療水準から離れた診療をしたり故意が疑われる場合は司法に調査をバトンタッチするという案に収まったのです。民主党は野党時代に後者の本音を推進させるべく、院内事故調を基本とし司法の関与を認めない案を提出しました。これは医療関係者受けは良かったのですが、現足立政務官周辺の人間だけで決められたような案であり、司法サイドや被害者団体との刷り合わせもまともに行われていないのですんなり通るかどうかも分からない。

これは全く普天間と同じ構図です。「〜したい」という理念だけが先行し、関係する利害関係者全体への事前調整や根回しもせず、自らの手足を縛るような案を提示してしまった。普天間のパターンを鑑みれば、結局のところ生まれるのは被害者団体(=徳之島)や司法サイド(=アメリカ)との軋轢、医療関係者(=沖縄県民)の過度の期待だけで、何も決まらないで終わるか、ちゃんとすり合わせが行われてきた大綱案に近いところで決まるんだうというのが私の予測です。

医療関係者もばらばらで、一刻も早く警察の介入を抑制したいという人々もいれば、時間はかかってもいいから完全に介入を阻止したいというグループもある。そこの意見統一をしないままに、「我こそ『医療関係者』だ」というでは何も自分たちの利益にならないことは明らかです。

迷(名)言集1

不定期更新。普段の会話の中で私から飛び出した迷言、名言を紹介します。
#1 人間は「人間」である必要がない
意味:「人間らしさ」を定義してはならない
詳解:人間に「人間らしさ」を定義すると、いかなる「人間らしさ」であってもそこから漏れてしまう人が存在し、かれらの人間としての存在を否定することになるので、「人間らしさ」というものを定義してはならない。人間ならば犯罪者であろうが障害者であろうが全てが無条件に人間としての存在を認められるべきである。当然、「人間性が感じられない」という裁判での腐った常套句は論外。指摘するならばもっと具体的に足りない部分を言うべきであって、人間性などという曖昧な言葉を批判のために安易に使うべきではない。

#2 危険をマスクされた人々ほど危険なものはない
意味:危険から隔離された人々は危険を認識できないばかりか、社会に悪い影響を及ぼす
詳解:日常生活において危険から隔離された人は、危険を予測できないだけでなく、いざ運悪く危険に遭遇すると普段の生活に本当は危険が潜んでいたという重要な事実を忘れ、危険を減らすために従事していた人々に対して、全責任を転嫁しようとする。その結果、危険を減らすために努力していた人々のやる気を削ぎ、社会はより危険の多い社会になっていく。安全教育の第一歩はなによりも隠れた危険の認識にあるわけで、彼らは危険を減らすための要求活動をする前に、自分の周りに本当はいかに多くの危険が潜んでいるかを改めて認識すべきなのである。事故においてマスコミ報道に反応して自らの行動を省みることなく加害者批判をする人間ほど、実は自身が安全に対して無頓着であるということを証明しているのだ。
#3 犯罪者がいるから我々は犯罪者にならずに済む
意味:我々の中の一部は必ず犯罪者になるが、その役割を刑務所にいる犯罪者が負ってくれているので彼ら以外の人間は刑務所に入れられずに済んでいる。
詳解:なぜかはよくわからないが、いつの時代にも一定規模以上のコミュニティには犯罪者が必ず存在する。実際に我々の社会も一定割合が犯罪者であり、誰しもがちょっとしたことで犯罪者になる可能性を秘めている。したがって確率論から言えば現に我々が犯罪者でないのは、「一定割合」の役割を現に犯罪者となって収監されている人々が負っているからであり、我々は自らが犯罪者でないことを犯罪者に感謝する必要があるのかもしれない。少なくとも我々は自らが犯罪者でないことを当たり前に思うのではなく、神なり家族なりに感謝しなければならないのである。

空港の廃止よりも活用を考えては?

昨日のクローズアップ現代、大勢の日本国民と裏腹に私は全国の地方空港の赤字が「たった」80億円しかないということに正直驚きました。地方自治体の投入額もあるとはいえ、せいぜい2、300億円程度の赤字で何十もの空港が運用されているというのは他の事業を比較してもマシなほうなんじゃないでしょうか。
空港は山がちな日本にとっては防災拠点として重要であることは言うまでもありません。阪神大震災ではいまや空港問題の象徴ともなっている関西空港を経由して海外から多くの支援物資が運ばれました。普段は小型機しか飛ばない八尾空港が物資輸送や政府高官の視察の拠点になったことも忘れてはなりません。本土利用者数最低のコウノトリ但馬空港はいま全国一忙しいドクターヘリの給油・夜間駐機拠点になっています。
もし正常なリスクマネジメントの感覚があるならば、これらの空港は決して単なるお荷物ではなく、活用の仕方次第でいくらでも有効に活用することが可能です。もちろん、収支計算には表れない形でです。そもそも公共事業というのは赤字になるからこそやる価値があるのであって、黒字になるならば民間にすべて任せればいい話。そこに杓子定規に収支の議論を持ち込むと公共事業の意義が本末転倒になってしまいます。そこまでマスコミや国民はちゃんと考えてるんでしょうかね。

高速道路をつくらない方法

道路の整備に関して。高速道路に関しては、「そもそも車なんていらねーよ」という都会と、「車は自転車替わりと言うよりももはや足に近い」という地方の対立構造があるわけです。最近は高速道路の必要性をアピールするために「命の道路」という言い方もされていて都会人には胡散臭くも感じられますが、大きな病院までいくつも集落を越えていかなければならない地方ではそれもまた事実なのです(ドクヘリの方がいいんじゃないかという気もしますが、ドクヘリは日本では飛行条件が厳しく夜や霧のときに飛べないことが多い。夜間照明設備や航法支援施設の強化がさらに必要)。

地方の好きな都会人である私にとっては両方の言い分が理解できますし、実は都会人が見えていないところに地方の重要さはあるわけで(地方に行くと普段食べている飯は一体どこから供給されているのかということがよく分かる)、地方の道路網の整備が必要なのは言うまでもありません。

しかし、地方に高速道路が必要かと言えば決してそうではないとも思います。地方の道路は峠越えなどを除いては巡航速度70km/h、最高90km/hぐらいは出せる曲線半径になっていますし、実際に50km/h制限のところを多くの車が70km/hぐらいで走行しています。ここに高速道路ができたとしても暫定2車線対面通行では最高制限速度は70km/h程度であり、だいたい80km/h〜90km/hで流れていますから速度向上効果は時速にすると20km/h程度しかありません。高速道路のメリットとしては信号が少ないというものがありますが、そもそも地方の道路では集落内はともかく、集落間では信号がほとんどありません。人の通行もほとんどないことから、ネズミ捕りのいない夜間は80km/h〜90km/hぐらいで飛ばす車もあります。これは高速道路そのものです。

つまり、高速道路を作らなくても

  • 集落の前後をバイパスする自動車専用道路を作る
  • 信号機には緊急車両が通行すると青に変わるシステムをつける
  • 集落間の道路の幅を拡張し、広い歩道・軽車両道を設け、数少ない歩行者や遅い原付・トラクターが安全に通れるようにする。車道は原則自動車専用にする
  • 歩行者横断が多い個所には横断歩道と歩行者感知装置を置き、歩行者がいると直前の警告灯を点滅させるようにする
  • そのうえで法律を改正し、集落間やバイパス道路の法定速度を70km/hにする

という処置を施せば巨額を投じてトンネルだらけの高速道路を整備しなくてもいいわけです。実質的に高速道路と同じ程度の所要時間しかかからないわけですから。日本の道交法を改正せず頑なに堅持しているから、こういう「頭を使った」整備ができないわけで、まったく日本の役人や政治家はあまりに「法律」にこだわり過ぎて金を無駄遣いしているなぁと思います。

イナイチ走りというらしい

最近知ったこと。私の地元であるR171の茨木-高槻間が極めて走りにくい道路であることは以前にも取り上げましたが、酷道マニアの間では「イナイチ走り」と言われているそうです。全国的にマニアの間では通用する言葉だそうですよ。

ちなみにどういうことかというと、R171のこの区間は片側2車線の50km/h道路なんですが、交通量が多い割に道路幅が異常にせまく、右折レーンがない交差点が頻発するのです。しかも左右には飲食店や家電量販店などが林立しており、そこに出入りする車も大量。

よって左車線を走行した場合、左折車や店に出入りする車で度々減速・停車を強いられる上、右車線からの車線変更がガンガンくるので、車間距離を頻繁に修正しなければならない。時々トラックが路上駐車しており、駐車車両を発見次第、一気に加速して右車線へ(ここで右車線に隙間があるのに入るのをためらうと、長時間路駐の後ろでうずくまることになる)

右車線はもっと難易度が高く、70km/hぐらいの高速走行中、突然前方の交差点で先行車が右折ウインカーを出すのを視認したと同時に、左車線の空いている隙間を見つけてそこまで加減速し、左ウインカーを出すと同時にさっと入り込む。交差点で右折待ちをしている右折車を通り越したらウインカーを出さずにすぐに右車線に戻り、加速するも今度は先行車が交差点でないところで店に入るために右折待ちをしており、また左車線へ一時的に退避。時々こういう車はわずかなゼブラゾーンを利用して尻だけ右車線に残っていることがあるが、そういうときはたとえ左車線の車間が8mしかなくても千鳥状態で半分だけ左にはみ出して走行する(左走行車もそれを予測して車間をやや広げるのが当たり前)。

この道路を右車線でまともに走ろうとすると、

  • 直前の先行車の動き(右折しそうな雰囲気がするとあらかじめ逃げる)
  • 2、300メートル以上先の交差点の右折レーンの有無と前方の右折車
  • 右折車の存在を発見して、左レーンに車線変更する前方車の有無
  • 左車線の空いている状況と速度
  • 左車線からの車線変更の有無
  • 後続車との距離と速度(こちらより先に左車線の隙間に入られることもあるので)

を常にスキャニングしておかないと右折車の後ろで長時間うずくまる羽目になります。

最近は常に300m程度前方を見ておく、隙間があったら躊躇せず速度を合わせて割り込む、という技術を身に付けたため、スムーズにこのイナイチ走りができるようになってきましたが、初心者のころはとにかく左でも右でもうずくまることが多かったのでした。こういう運転は我々にとっては全くもって「普通」の部類なのですが、他の運転文化の人々にとっては「超怖い」運転になるのでしょう。

そういえば、先日名古屋の人と話した時に、「法定+20km/hとか普通じゃん、+15km/hぐらいがノーマルで、それぐらいで走らないと煽られるよ」と言ったら絶句してましたね。愛知もそれなりにスピードを出すはずですが、それでもそんなものなのでしょうかね。そもそも日本の法定速度は歴史的経緯から不合理なほど低く設定されているので、効率性や合理性を考えれば法定や+20ぐらいの方が適正かつ安全かと思います。