変わりゆく鉄のトライアングル

注意:これから話す内容はあくまで仮説の段階ですが、日本の将来を考える上で私が非常に懸念している事であるということを断っておきます。また、あえてタブーに踏み込んでいるという事も断っておきます。

1990年代までの日本では、戦後より顕著になった「政官財の鉄のトライアングル」が権力の中枢を担ってきました。すなわち、政治は財界から献金を貰うかわりに、財界に有利な法律を策定してきました。政治家は官僚に対して地元への利益誘導を求める代わりに、官僚の言いなりになって様々な法案が成立するのを手伝ってきました。そして、財界は官僚に接待や天下りポストの提供を行うかわりに、官僚は許認可や公共事業の発注を財界の有利なように行っていました。

このトライアングルはそれだけでも強固なものですが、縁の下の力持ちによってさらに構造が強化されていました。選挙において財界の指示を受けた下請け企業とその社員が、自らの利益にもなるからと特定の政党を組織的に応援することで、ちょっとやそっとでは崩れない体質が出来上がっていたのです。その結果が無駄な公共事業の大量発注であり、土建国家日本の発展の歴史です。

ところが1990年台以降、バブルが崩壊し、既存の価値観も崩壊していく中で、このトライアングルは弱体化していきます。国家の経済・財政状況が厳しくなり、3者+αすべてが利益を得られるようなwin-winの関係を構築することが難しくなりました。分けられるパイがなくなったのです。一般的に欲求を満たすパイを失った権力構造は崩壊していきます。事実、つい先日その権力構造が崩壊したことが証明されました。日本の経済成長を支えてきた鉄のトライアングルは終焉を迎えたのです。

しかし、いつの時代にも利益と権力を求める者はいます(それは自然の摂理であって、悪いこととは思いませんが)。新時代の権力構造として新たに台頭してきたのが、マスコミと被害者団体を中心とする新たな鉄のトライアングルです。


前述したように、日本の国家財政と経済情勢は厳しく、金銭的なパイを山分けできるだけの余力が残っていません。パイがないので、もはや誰も金銭的な利益を求めて強固な関係を築こうとはしません。しかし、国家というのは本質的に二つの財を持っています。一つは国民から集めた「税金」という金銭的な財、もう一つは「法+警察権」という武力的な財です。次世代の権力構造が着目したのはこの武力的な財です。

一体それはどういうことなのでしょうか?

それは昨今、メディアに頻繁に露出するようになった「なんとか被害者の団体」による法と警察権の制御です。ご存知のように、ここ5年ぐらい犯罪被害者や事故被害者の活動が活発化し、メディアがそれを取り上げ、感情的な国民がそれに同調し、法律が改正されるという動きが広がっています。確かに、犯罪被害者に関して言及すれば、かつて犯罪の被害者は、司法の場からも阻害され、社会からも受容されないことで憂き目を見てきました。ところが、酒鬼薔薇事件などの刑事罰を与えることが出来ない少年事件に対するセンセーショナルな報道(実際には少年犯罪の件数は減少している)や地下鉄サリン事件、相次いだ通り魔的な事件がきっかけで、犯罪被害者に対する注目度が急激に上昇しました。テレビ局を中心とするマスコミは視聴率を稼ごうと、なりふり構わず被害者の取材を試み、一時は社会問題化すらしました。犯罪者に対する風当たりは強くなり、更生や情状などはもとから眼中になく「なんでも犯罪は死刑にしろ!」というような短絡的な国民も急増しました。そこには単に「被害を受けたのはかわいそう」という素朴な感情以上に、「自分もいつ被害を受けるかもしれない」という国民の恐怖心と苛立ちが垣間見えます(しかし、果たしてその恐怖心はリスクを正しく評価したうえでの恐怖なのでしょうか?「正しく怖がることはむつかし」とよく言います。興味のある方は統計資料を探してみるのをお勧めします)。

そういった感情的になった国民をバックにした「追い風」の中で、犯罪被害者団体は被害者感情の充足と犯罪の再発防止を目的として、犯罪に対する厳罰化を求めるようになります。そして、その意思は新たに構築されつつ「政報被」の鉄のトライアングルというシステムを経て、国家の法システムに確実に反映されるようになりました。具体的には犯罪被害者基本法といった基本法制定に加え、道交法や刑法の改正、少年犯罪に対する刑事罰適応の拡大などがそれに当たります。もしかすると、裁判員制度もその一つかもしれません。

それでは「政官財」のトライアングルに比して「政報被」のトライアングルにはそれぞれどういった関係があるのでしょうか?まず、被害者団体と報道との関係は、報道は「被害者の声」を報道することで国民の共感を呼び、報道の要である視聴率を稼げるというメリットがあります。一方、被害者団体は多くの国民に同時に情報を提供できる報道機関を利用してその意思と思いを広めることが出来ます。次に被害者団体と政治の関係ですが、政治家は被害者団体に注目して、被害者団体を支援したり、被害者支援、犯罪厳罰化の意思を表明することで、被害者のみならず恐怖心と苛立ちにかられた国民の支持を得ることが出来ます。国内犯罪ではありませんが、拉致被害者の家族会のバッジはいまや政治家必須のアイテムになっているようです。一方、被害者団体は立法権を持つ多数の政治家に対してロビー活動をすることで、自らの厳罰化の意思を法律・刑罰に反映させることができます。最後に報道と政治の関係ですが、近年国民の政治への関心が高まっていることに伴い、政治家のテレビ出演が頻回に行われています。かつては政治家がテレビに出るといえば、NHK日曜討論田原総一朗サンデープロジェクトぐらいでした。ところが今や政治家は討論番組ならずバラエティ番組にも多数出演しています。政治家の本分を忘れたのか、と言いたいところですが、彼らは報道に積極的に出演し、前述の国民受けのいい厳罰化の議論をすることで、知名度と支持率をアップさせているわけです。これも立派な政治活動です。一方、報道は事件や事故に対して恣意的な報道をすることで世論を操作し、政治を変えるだけの力を持っています。たとえ政治家が本心でよくないことと分かっていても、ある程度報道の言うことは聞かなければなりません。報道が世論を操作して何のメリットがあるかということですが、マスコミに就職する人間はもとから社会制御欲が強い人物が多く、自らのペンの力で社会を変えることに強い心理的満足感を得ているのです。さらに実利的な面で言えば、知識人からは何度も記者クラブ制度の廃止や放送電波利用権の開放が叫ばれている中で、政治家に対して「マスコミを敵に回すと政権が持ちませんよ」といって自らの権益を守っているという側面もあります。


このように政官財の「鉄」のトライアングルに比べると、まだそこまで強固とはいえませんが、確実に政報被のトライアングルは強固になりつつあります。最近の例だけをとってみても、北朝鮮拉致被害者、犯罪被害者、薬害被害者などの団体がこの種のトライアングルを構成しています。もちろん、このトライアングルの縁の下の力持ちは、恐怖心と苛立ちに支配され、適切なリスク評価が出来なくなった感情的な国民です。

ここで、次のような反論が出てくるでしょう。「被害者の味方をして何が悪い?」「政官財は国民の税金をむさぼったが、政報被は法律を変えてるだけでカネはむさぼっていない」

そういう反論のために次の図を用意しました。これは社会の行動と法との関係を概念的に捉えた図です。

皆さんの日常生活を考えてみても、本質的に人間の思考と行動は多様です。多様ということはバラツキがあるということです。バラツキがあるものには、1対1対応の論理図でなく、分布を考えなければなりません。人間は完全な自然とは異なるので正規分布に従うとは到底いえませんが、ここでは正規分布に似た分布を分布の概念として用います。また、そもそも一般的に統計を考えるときは定量化が必要ですが、ここでは観念的議論をするため、定量化は行いません。

以上の条件の下で、人間の行動は多様です。しかし、多様ゆえにそれを完全に放置すれば、お互いが自己の利益のために殺し合い、万人が万人に対して闘争を仕掛ける社会が形成されてしまいます。いわゆるホッブズの言う自然状態です。そこで、どこかで線引きをして、「ここから先はやってはいけない」という規律が必要です。かつての社会はそれはいわゆる社会通念に従って行われていましたが、基準が不明確という批判や統治のしにくさなどから、原則「法」というルールに基づいて行われるようになりました。

しかし、人間の行動は決して法だけで規定されるものではありません(法だけで規定されればそれはロボットです)。食べ物がなければ強盗を働くでしょうし、恨みが強ければ殺人もあり得ます。そこで、決して無くすことが不可能なこの逸脱行動に対して、国家は復讐の連鎖による闘争状態を防ぐために、個人の代わりに国家が罰を下すという手法を取る仕組みを取っています。このことは逆に言えば、逸脱行動をする際には罰が下る可能性を覚悟して行うべきだ、と諭すために国家は法と警察権を保持しているということが言えます。また、同時に加害者に対しては国家が復讐をするので決して被害者は個人で復讐をしてはならない、すれば罰が下るということになります。

つまり、刑罰を伴う法とは「人間は法を逸脱する」ということを前提にしたルールであり、決して法によって犯罪をなくすことを前提とはしていないのです。それが証拠に、仮に通時的、共時的にすべての人がある法を守るような環境があるとすると、その社会にはその法が存在する必要性はありません。まさに「法は破られるためにある(人間を主体にすると『破るためにある』)」のです。実際に罰則付きのルールを作ったことがある人ならば分かると思いますが、法を立案する者は常に法が破られることを前提にして法案を作成しています。このことを認識しておかなければ、次のようなパラドックスが生じることが考えられます。

犯罪被害者団体は厳罰化や適応の拡大を求めますが、それは法もしくは刑罰の適応基準を図で左にシフトさせることを意味しています。彼らはそれによって、逸脱行為に伴う利益と刑罰に伴う損失とを比べたときに、後者の方が大きくなるため、犯罪が減少すると考えています。しかし、実際のところは多少、人間の行動分布を左に偏らせることはできても、それ以上に、法もしくは刑罰の適応基準をシフトさせたことによって「違法」に分類される行動範囲が増え、「犯罪」が増えるという結果を生み出すことが多いのです(もちろん、例外はあるでしょうが、私はあまりそういうケースを聞いたことがありません。少なくともそういう事例では、単なる法の捜査だけではなく、バックに警察権の強化が為されていることが多いように思います)。犯罪を減らそうとして犯罪が増える・・・・まさにパラドックスです。このパラドックスに陥ると、犯罪被害者団体は永久に国家に対して犯罪の厳罰化を求め続けなければなりません。大多数の国民も容赦なく襲い掛かる厳罰化の中で窮屈な生活を余儀なくされます。抑圧や心理的脅迫が続く環境では人間は突然キレルことがある、という最近の知見を踏まえれば、こういった環境そのものが犯罪発生の温床になることもあるでしょう。さらには、いつのまにか増える「犯罪」を取り締まるために、戦前の特高警察や憲兵のように国家の警察権が限りなく肥大するということすら考えられます。こうなれば、おいしい思いをするのは、思いどおりに国民を制御したい官僚や権力拡大を狙う警察庁ぐらいなものでしょう。

私は厳罰化は犯罪抑止の観点においては最後の姑息的手段であるべきと考えます。まず第一選択として行うべき正当な方法は、犯罪を生み出す社会の意識と状況を分析し、そもそも警察権の介入に頼らずとも逸脱行動の起こりにくい環境を作ることです。図で表せば、法もしくは刑罰の適応基準を動かさずに、行動分布のみを左に寄らせるということを意味しています。もちろん、これはなかなか根気がいる上に、速効性は期待できない手法です。効果も目に見えにくい。しかし、よく急がば回れといいます。最近のインパクトの強い少年犯罪などを見ていると、その根源は社会の風潮にあって、その背景因子を是正しないと同類の犯罪を防止することは難しいのではないか、と思う事例が多いです。

以上のことから、私は政報被のトライアングルが現在目指しているものは、国民の税金をむさぼりはしないものの、彼らの心理的欲求を満たす目的で、最終的には国民全体の生活を窮屈にする行為と考えています。それに安易に与することは自分たちの所属する社会が努力して手に入れた自由と多様性を自ら否定するものといわざるを得ません。

もちろん、私は被害者の強い悲しみや怒りの感情を否定するつもりはありませんし、それは当然だし、真っ先に受け止めてあげなければならないことだと考えています。またはっきり言って、被害者に対する国家からの補償も不十分です。もっと国民の税金を投入して被害者に対して金銭的補償をすべきだと思っています。これは被害者から復讐の権利を奪った国家が行うべき最低限の礼節です。被害者が被害の真相について知る権利についてもしかりです。被害者支援は最も重要な課題の一つなのです。

しかし、被害者が感じる「素朴な感情」と、そこから波及する「社会を制御しようとする行為」とでは異なる対応をしなければなりません。色々な被害者に共通して言えることですが、彼らの素朴な感情に間違いはありませんが、彼らの考える被害の再発防止策にはかなり現実離れしていたり、副作用が大きすぎるものが多々あります。おそらく、自分が被害を受けると、そこに視野が集中してしまい、大局的に物事を見ることが難しくなるのが原因だと思われますが、どうも1か0かという思考回路が形成されてしまうようです(よって発言は非常に論理的になり説得力を増すようになります。しかし、その論理的思考は現実社会を考える上で果たして正しい思考なのでしょうか?)。事実、彼らの発言を注意深く観察していると、「絶対」という言葉をすべてにおいてつけたがる傾向があります。「絶対にあってはならない」とか「絶対に安全でなければならない」とか。しかし、残念ながらこの世の中には「絶対」はありません。人間の行動は本質的にばらついている上に、最終的には確率(巷でいう「運」)がこの世を支配しているからです。

政報被の三者は意図してか意図せずか、いつのまにかトライアングルを形成し、法+警察権という国家の財を制御できるだけの権力を持つようになりました。これは私の信念ですが、いかなる権力構造も固定化して決してよいことはありません。権力の固定化は社会の硬直化と腐敗をもたらします。権力構造は常に他者の攻撃にさらされ、変化していくことが必要です。権力には天敵がいなければならないのです。

現在、少なからずの人間が、政報被の権力トライアングルに対して多少の疑問を抱いています。しかし、相手の中に「被害者」という弱者がいるため、ほとんどの人が勇気を以ってこの権力構造に挑むことが出来ていません。しかし、いくら弱者といえども、法を変えるだけの力を保持すれば、権力構造という観点では強者です。権力を持った強者である以上、彼らにもそれ相応の攻撃が為されなければ、日本はいずれおかしくなります。私があえて今回タブーを侵したのは、別に恨みがあるわけではなく、専らそういう理由からです。彼らが今度、逆に権力的に弱者になれば私は彼らを応援します。

最後に「被害者」の中でも特に私が非常に尊敬している家族会元事務局長の蓮池透氏の対談と犯罪被害者の会元幹事の渋谷氏の手記のリンクを張っておきます。
蓮池透さん×森達也さん「拉致」解決への道を探る
犯罪被害者の会幹事を辞任しました。
両者とも自らが「圧力団体」であるとか「制裁のみを求める団体」であってはならない、と内部から権力化の方向を否定する発言を行っています。被害に遭いながら、辛い思いをしながら、自らの権力が過剰化しないよう、自制を促した彼らの勇気は賞賛に値するものがあります。