医学部へ入った理由を振り返る

僕自身はAB型ということもあり(?)結構昔から変わった人間であることを自覚はしているのですが、多くの人からすれば僕が医学部へ入った理由というのは異端なのかもしれません。でも一応明らかにしておきたいと思います。長文ですが、よろしければお付き合いください。

幼稚園のとき僕の夢は電車の運転士だとか、ガソリンスタンドの店員だとかマクドナルドの人だとか、いわゆる普通の男の子が持つような夢を持っていました。僕が医師になりたいと思ったきっかけは小学校低学年の頃に、父親(勤務医)が治療した患者さんから感謝の手紙が家に届き、それを読んだときだったそうです。「僕も医者になる」と言ったそうです。僕自身はこのことをあまり詳しく覚えていないのですが、これが医学部を目指す最初のきっかけとなったわけです。小学校の時はずっと医者になりたいと思っていました。

中学校に入っても、最初のうちはその思いは消えることはありませんでした。ところが、人材不足という事情で2年生の頃にクラブの技術担当を任されることになり、学校の勉強そっちのけで電子工作やプログラミング、電気工学の勉強や実験ばかりしていました。理科は好きで、電気は得意ではなかったので、電子部品店の店員に食らいついて1時間以上教えてもらったりしていました。とかく、責任感の強い人間ではあるので、任された仕事については比較的必死になる傾向があって、のめりこんでいました。そして当時、プロジェクトXという番組がとても人気でした。戦後から高度経済成長期に技術者たちが短期間のうちに必死で製品を開発している姿にとても感動しましたし、多少ながらも今の自分、将来の自分と重ね合わせながら見ていました。しかし、のめりこみすぎて成績は下がる一方、今のままでは医学部なんて無理という状況になってきて、「医学部よりも工学部に行って技術者になりたい」と強く思うようになりました。さらに親が医局の教授交代の影響を受けたり、医療事故の報道が非常に活発になり、「叩かれるばっかりだし医者なんて仕事はやりたくない」と思うようになりました。そして、高校2年生(私は中高一貫校の生徒でした)の終わりまでそう思っていました。途中で親の話を何度となく聞く機会があったのですが、「患者に医療ミスだろうと脅されて10万円渡した」とか「たまに暴言を浴びせられている」という話ばかりで、とてもじゃないですが明るい話題は少なかったように思います。高校2年の秋に急性胃腸炎で5日ほど入院して、少し医療が身近にはなったのですが。このからクラブの大きな仕事(高2の春までクラブの部長をしていた)も終わり、ちゃんと勉強をしはじめたおかげか、徐々に成績が回復してきました。でも、医学部へ行きたいとは思いませんでした。冬に手首の捻挫の痛みが眠れないほど酷くなり、親に連れられて親の出身の大学病院へ夜間外来で行ったのですが、研修医の先生が親の授業を受けていたのか、一緒にレントゲン室へ行くときに「○○先生のお子さんだよね。君も医者をめざしているの?」と話しかけられました。僕が「う〜ん、いや、最近は医療ミスとか多いですからね」と返すとその先生は「確かに。今は医者はいい仕事じゃないかもしれないね」と少し考え込むような感じでした。

高校3年生になり、受験勉強に集中するということと、通学時間の節約などの理由から親から少しはなれ、祖父母の家に居候することになったのですが、しばらくして母親から「親父が『進路は自分で決めたらいいと思うけど、でもやっぱり医者になってほしかったなぁ』とぼやいている」という電話をもらいました。まぁ、気持ちは分かるし、成績が少し回復したこともあるし、レベルの高い医学部を志望に入れておけば勉強にも身が入るや、と思って医学部を進路の候補に再度組みなおしました。ただし、あくまで工学部が第一志望で、その次が医学部という位置づけでした。もっとも母親は中高一貫して私を医学部に入れたかったみたいですが(父方が医者系の家系なのでそのプレッシャーもあったのでしょう)。

あとは、私の学年(受験界では有名な学年のようですが)は非常に医学部志向が強くて、周りは「医学部、医学部」とばかり言っていました。多くの人は高2ぐらいから医学部を目指して勉強を始めていて、工学部志望の方が少ないのではないかと思ったほどです。志望校調査では理系165人のうち、国公立医学部を第三志望までに入れている人は100人という情報すら流れてきました。意地っ張りな私も学年の流れに多少影響されたという面は否めません。

もっとも、なんだかんだ言っても高3の夏まで東大理Iを第一志望にしていたことは変わりありませんでした。僕に決定的な転機を訪れさせたのは、夏の東大のオープンキャンパス。もちろん工学部の巨大な実験設備などを見せてもらったのですが、その後、安田講堂で特別講演があり、一つは量子力学のお話、もう一つは紫綬褒章を受章した中村祐輔先生のオーダーメイド医療のお話でした。「遺伝子を解析し、その人に合ったクスリを処方する」という考え方は工学部を目指していた僕にとっても非常に斬新なものでした。医療に強い期待と夢を抱きました。物理化学選択だった私が、バイオという分野に興味を抱いたのもこのお話がきっかけでした。もし、「工学部に行くとしてもバイオ分野に行きたい」そう親に話すと「バイオなら工学部もいいけど、実は医学部の方が主導権を持っていることが多いんや。医師免許というのはやっぱり強いねん。将来的に医者の仕事をせずに研究者になるにしても、医学部を受けてみたらどうか」と言われました。この段階で第一志望が医学部に変わったのです。学年の中では第三種電気主任技術者免状を持っていて、在学中から最も工学部的なことをしてきた私が当然工学部に行くだろう、と思っていた周囲の友人や先生は突然の志望変更に驚きを隠せないようでした。「あのお前が!?」というような反応は多かったですし、今でもそうおっしゃる先生は多いです。

ということで、僕は医学部を志望した理由は他の人と比べるとかなり異端なのではないかと個人的には思っています。安田講堂を見ると、いつも「これが自分の分かれ道だったなぁ」と思わされます。これだけだったら、医療の日常の世界に見向きもしていない進歩主義者なのですが、実のところ決してこれだけが理由というわけでもありませんでした。

僕は結構クラブでも後輩を可愛がるほうで、高2、高3の頃は後輩たちの笑顔を見るのを楽しみに学校へ行っていました。また、僕自身は結構心配症で彼らが体の不調を訴えると、何かしてやれないかと常に思っていました。何かのプロジェクトを動かすことも大きな仕事ではありますが、健康あってこそのプロジェクトです。また、高2の頃に私のクラブで焼肉店のホルモンが原因と思われる集団食中毒が発生し、私も下痢と嘔吐で修学旅行からの途中帰還を余儀なくされました。そんなこともあって、自分の周りのみんなの健康を守りたい、何かあったときに守ってあげたいと思っていたことも確かです。医学部を志望し始めた前後からその思いはなぜか急激に強くなっていきました。もちろん、常に自分の周囲の友人が患者がなるわけではありませんが、戦争で散っていった特攻兵が決して天皇や国家のためではなく、自分の故郷の人々を守りたくて命を投げ打って出たのと同じような感覚を感じました。

昨年の12月に医療崩壊を知って、自分がこの道へ来たことが本当に良かったのかを何度も考え直す日々が続きました。正直、なんで医学部に入ったのだろうと、その目的を見失うこともありました。その中で、ふと思い出したのがこの感覚でした。「そうか、これが自分が医学部を目指した一番大きな理由だったのかもしれない」と今では思っています。

また同時に、医療現場の矛盾や相次いで報道される医療ミスということも念頭には強くありましたから、新しい発想で医療を変えなければならない、変わらなければならないと意識も強かったのは覚えています。それを変えていく力になれば、というのはいつも考えていました。

医療過誤、患者の攻撃、そして医療崩壊・・・僕が一時期、医者という仕事を極端に嫌ったのがこの理由だとすれば、それを押しのけて医学部に入ってきた私にはまず先にこの課題に対して取り組む義務があるのかもしれません。