コントロールしすぎない教育が最も大事なんだろう

秋葉原事件の加藤被告の裁判ですが、読んでいてなんか虚しい気分になりましたね。

昨今の不景気社会で落ちこぼれることをおそれ、小学校低学年から子供に塾を行かせたり、なんでも子供を親の敷いたレールに載せようとする親が増えているみたいですが、子供は本来親が無理やりコントロールしてはいけないものです。

それは一見強力な力で子供をコントロールできたように見えても、心のどこかに禍根を残していたり、親への不満が親が必死になる背景にある社会への不満へ転化したり(これは正しい行動だろう)、最終的には人間不信に陥りやすいからなのです。実際、人間不信感を募らせている人々に付き合ってみると、親があまりに子供の行動を世間一般以上にコントロールしすぎたケースが大半です。親が子供に肯定的に接した家庭ではそういう子供は非常に少ない。友達にも家族にも肯定的な人間が多いですね。育て方次第で子供というのはこうも違うんだと痛感した記憶があります。

よくある批判に「結局でもそれは子供の捉え方や意志の問題ではないか」という意見がありますが、それは安全地帯にいる人間が対岸の火事にのたまう戯言というものです。親が経済的にも心理的にも絶対的存在である子供には、親の行動はもちろん、自分の心理も含めてどうすることもできないわけで、以前のコメントにもあったような自己責任論などは全く無意味、本来なら親や社会が変わっていかねばならないことだと思います。

【秋葉原17人殺傷 被告語る初日(4)】笑われながら風呂に沈められ…スタンプ10個で罰 「母の意に沿わないと怒られる」

この記事を見て、多くの人は「そういうこともあっただろうが、そんなことばかりではないだろう」とコメントするでしょう。しかし、虐待じみた行為を伴うコントロールを何度も経験した子供はたとえ他の子と似たような経験をしていたとしても、幸せな場面はすぐ忘れ、そういう悪い被害的な場面だけを強く記憶するものです。彼のコンプレックスもそういう流れで形成されてきたのでしょうね。おそらく、脳の回路が自然とそういう風に働くのだろうと思います(その根拠は似たような環境になると人間そうなる傾向の人が多いから)。人間というのはそのようにプログラムされているものなのです。(物事を悪く捉えるという点では精神疾患でよくいわれる認知の歪みという病態なのかもしれません)

そして、それが父親ではなく本来子を守るべき、受け入れるべき存在である母親から受けた行為であるという事実。これは彼の心の成長を決定的に病的なものにしたとうことに疑いの余地はないと思います。父親が弱い存在で、母親が過干渉な日本や韓国ではよく起こりうることなのですけどもね。

正直、この裁判はずっとチェックしていますが、彼がこういう事件を起こすのは当然だろうし、私は不思議にも思いません。本来ならばそういう親の行為は社会が止めるべきなのですが、それを社会が怠ってきたのですから仕方ないですね。我々社会の自己責任ですね。でもある意味、日本的な事件だなと思います。これからもこういう事件はちょくちょくあると思います。

選挙結果から見る将来の日本の1パターン

私の期待通りに参議院で与党が過半数割れしましたね。ねじれの再来です。

前回のねじれもそうでしたが、ねじれ国会になると審議が停滞し、法案や政策の進行がことごとく滞る傾向にあります。多くの人はこのことをあまり良くないことだと考えますが、私はそうは思っていません。現代の日本が価値観が発散していくポストモダン社会の巨大な実験場であるという背景を踏まえれば、この停滞の連続はしかるべくして起きたものであり、ポストモダン社会を次のステップに進める重要な素因になることは間違いないからです。

すなわち、私の仮説はこうです。
人々の価値観が多様化して発散していくと、コミュニティや思想が島宇宙化し、多数の少数派が多数派を構成し、安定した政策推進や思想浸透が図れなくなります。このような状態が続くとさすがに価値観の多様化がよろしいと信じる人々も、不安定さに我慢ができなくなり、何か安定した拠り所になるものにすがりつこうとします。各人の価値観は多様であっても、すがりつき願望は共通ですから、ここでカリスマ的な指導者が現われると今までの差異など無視して、彼らについていこうとします(その前兆現象がコイズミであるような気もしますが)。一部の人間は熱狂的になり、場合によっては半独裁的な政治に移行することもあるでしょう。こうなると国民の中に一致団結しようという右派的な思想が強く芽生えることになります。右派化した国民は隣国とのトラブル時にことごとく実力行使による解決を求めるため、北朝鮮や中国など「不快な隣国」を抱える日本ではおそらくそれらとの交戦議論が出てくるでしょう。憲法という防波堤を乗り切るのは時間と運の問題とも言えます。前回の半ポストモダン的社会では実際に政治の不安定さが戦争につながっていきましたが、今回ももちろん戦争につながる可能性は否定できません。一方で戦争以外の何らかの別の形でポストモダン社会の停滞が打破されていく可能性も残されています。私にはその具体的内容は予測もつきませんが、当然ながらどちらかというと後者の可能性に期待しています。何か新しい世界が生まれそうな予感がするのです。とにもかくにも停滞の連続は、心理的にいずれ大きな革新をうみます。停滞は決して悪いことではないのです。

児ポ条例についてひとこと

私は東京都が制定しようとした漫画児ポ条例には反対の立場です。表現の自由とかそういう問題もあるでしょうが、様々なオタク界と比較的親和性が高い立場の人間として、アニメや漫画、写真などのメディア上でさらされているわいせつな表現が、現実でのわいせつ行為欲求を抑止しているという側面を強く感じるからです。

そもそも、写真はともかく、実質的にそれを取得するために一切の害が生じないアニメや漫画までを東京都が規制する理由は一体何なのでしょうか。賛成派はこういうメディアが存在することで、現実に被害に会う人がいると主張しますが、一体何の根拠があってそういうことが言えるのでしょう?実際に中学生ぐらいを対象として援交やレイプをした人間を何百人も捕まえて、そういうメディアが影響したのか、有意差が出るように統計学的解析をした形跡はありますか?一切ないですね。単に「老人のたわごと」程度のエビデンスしかないわけです。

結局のところ、今回の規制の目的は女性差別云々(じゃあショタややおいはどうなるのか?)とか、そういうものに対して自らの中にある嫌悪感情を排除するという自己中心的な目的でしかなく、実際に被害にあう子供を減らすという目的ではないのです。もし、それが本当の目的ならば、もっと精神分析や心理学の専門家を集めて議論をさせるとか、数字をベースにした緻密な議論をするはずですからね。それすらまともにした形跡がない。

私はそもそも疑問なのですが、医学的に妊娠能力がない年齢はともかくとして、妊娠能力がある年齢については性行為や性的描写を規制する理由はないのではと思います。妊娠能力があるということは、逆説的に考えれば性行為をするのが人間本来の姿であるということですから(実際、昔の女性は15歳でも妊娠していたし、妊娠出産に耐えられないと判断すれば生理がなくなるわけですから)。同意がなければ成人同様のレイプとして扱えばいいだけの話でしょう。その点、12〜15歳程度を規制の実質上限値として設定している他国の制度・運用は非常に合理的だと思います。近年問題になる少子化対策のためにも、こういう性に対する規制は緩やかにしていくべきかと思われます。

あと、最近なにかと言われるゲームが現実と虚構を曖昧にしているという批判ですが、それって本当に正しいのか。犯罪例などでそういう例がクローズアップされやすいという現状はありますが、こういう連関を述べる際には数例の事件を取り上げても何も言えないということは、統計学の常識です。パワーが足りなさすぎる。何を言っても結局「たわごと」にしかすぎないのに、それを鵜呑みにする視聴者と国民。

今回の問題でもバーチャルがリアルでの被害を生むという議論がなされていますが、その稚拙さには辟易させられます。「萌え」系の人々というのは、意外と虚構と現実の違いには敏感なものです。虚構は虚構としてしか捉えられないからこそ、萌えられる。現実に虚構が入れば、ノンフィクションとしての面白みが減少するのと同様に、虚構に少しでも現実味のあるものが入れば、それこそ萎えてしまう。それゆえオタクに人気のある作品は往々にして「現実では絶対ありえないだろー」という設定ばかりです。その辺の議論については精神分析オタク文化に詳しい斎藤環氏がいろいろな本を出しているので、それを参照してみるといいでしょう。

魔の北神戸線

先日使った北神戸線ですが、新聞記事を色々あさっているとここ最近西宮山口JCT近辺で立て続けに事故が起きているようですね。

2月13日11時45分:下り線新唐櫃トンネル

直線なのに…トンネル内で消防車横転、2時間通行止め

6月26日15時半:下り線畑山トンネル(金仙寺トンネル)

西宮の阪神高速で27台絡む事故、5時間通行止め

7月3日8時半:上り線新唐櫃トンネル

阪神高速北神戸線トンネル、衝突事故で10人重軽傷

7月3日8時半:下り線金仙寺トンネル

車8台が事故1人重傷 阪神高速北神戸線

神戸線は60キロ制限ですが、他の阪神高速と比べると線型はかなりいいです。80キロ道路と勘違いしてもおかしくないほど直線的です。しかし、ところどころで突然阪神高速らしい急カーブが出現します。また全体的に長い直線トンネルが多く、気づかない間に100キロを越すこともしばしばです。
一方で車線は60キロ道路並に狭く、路肩もあまりないために一度事故が起こると避けきれずに追突するケースが多いように思います。線型は普通は80キロ道路、でも時々60キロクラスの急カーブ、幅は60キロ道路という矛盾した構造がここまでたくさんの事故を生み出すのでしょう。

新型うつは勝手なのか?

前回のエントリで書いた新型うつに関する論考はなかなか自分なりにもいいものができたなと思っています。もちろん、全くのオリジナルではなく、内海健氏や斎藤環氏ら現代精神病理の専門家や中井久夫の書物等を参考に一部を組み合わせたり、自身の経験や自分の周りの様子を参考にしながら考えたものです。

さて、この理論を基にして考えるといろいろ批判を浴びている新型うつの「自分勝手な」特徴にも合理性があることが見えてきます。たとえばよく言われるのが下の三つ。

  • 仕事の時はうつで、遊びになると元気になる
  • 自責的ではなく他責的にとらえる
  • 規範に対して否定的

まず一番目については先日も書いたように気分が外因によって影響されやすくなっているため、一般の人には「ちょっと嫌なこと」でしかない日常の仕事が「すごく嫌なこと」としてとらえられてしまい、気分を落としこんでしまうのでしょう。
二番目については理解できない人も多いようですが、もともと彼らには現代社会においては絶対善とされる「空気を読むこと」「コミュニケーション力」を努力して磨き上げてきた結果、「外部環境によって規定される不安定な自己」を作り上げてしまい、それが発病の原因となったという背景が存在します。社会的にいいことばかりやってきたはずなのに、なぜか病気で苦しまねばならない羽目になったのですから、論理的に考えても「自分が悪い」というよりは「他人や社会が悪い」と考えて当然でしょう。そこには何の矛盾もありません。
三番目に関しては、もともと彼らの絶対的な価値基準は現代社会の風潮に基づいて明文化されたルールではなく、その場その場で変化していく空気に依存しています。すなわち、みんなが信号を無視すれば同様に無視するのが「マナー」であり、それに同調することが彼らにとっては善なのです。そこに明文化されたルールなどという第二の規範(本当はこちらが「規範」なのだが)が現れると、どちらに従っていいかわからなくなり、困惑のもととなるのです。当然、規範には否定的になるでしょう。

こうやって考えると新型うつの謎がうまく説明できます。本当に正しいかどうかは分かりませんが、一つの解釈モデルとしてこういう風に考えることも一つの選択肢でしょう。

KYとコミュニケーション能力が病気を生む

現代日本には非常に罪深い概念が二つがある。
一つはKYで一時話題になったが「空気を読む」という概念
もう一つは近年、入試や就活で頻繁に目にする「コミュニケーション能力」という概念

今や当たり前になったこの概念が現代において、軽症うつ病を爆発的に増加させる大きな圧力になっていることは否めない。なぜなら、最近の新型うつ病、あるいは軽症うつ病の病理は、かつての勤勉さに過剰に執着することでうつ病を発症させたメランコリー親和型のそれとは異なり、刻々と変化する場面への過剰な同調圧力が人間ならだれもが持つ双極スペクトラムを前景化させたことによる結果だからだ。

単純に考えて、刻々と変化する場面に「空気を読んで」同調するということは少なくとも外面的な気分を双極的に変化させることと同義である(反KY社会では悲しい話題の時は悲しんだ気分で、楽しい話題の時は楽しい気分で話題に同調することが求められる)。したがって話題に合わせて気分を変える能力、すなわち社会的には「善」とされるコミュニケーション能力が高い人ほど、少なくとも外面的な気分が安定することはない。

もし、このような人のすべてが内面的な気分と外面的な気分をうまく使い分けることができるなら、うつ病を発症することはないだろう。しかし、定まった価値観が喪失したポストモダン社会では唯一価値の足場を置くことができるのは刻々と変化する外部の環境だけであり、往々にして内面的な気分は外面的な気分に幾分の位相の遅れを以て同調していく。場当たり的なコミュニケーション能力の高い人の一部に外面的な気分と内面的な気分をうまく使い分けられず、外因によって強く規定される内面的気分を持ったり、無理をして外面的気分と外面的気分を解離させるものが存在したとしても何ら不思議ではない。彼らは往々にして身体と内面的気分の間で、あるいは内面と外面の気分の間で不適合を起こし、うつ病を発症するであろう。

そこに追い打ちをかけるのが、生命が生まれて以来、引き継いできた人間が持つ周期性(双極性)である。地球上で生命が生き残るためには外乱に対抗して身体を一定の状態に保とうとするホメオスタシスと、日中太陽からの強い紫外線を避けたり、エサのない時期は冬眠して過ごすといった周期性(常に変化するという意味では広義のトランジスタシス)の両方を持ち合わせる必要がある。事実、人間の体では主にはホメオスタシスを維持するために様々な場所でネガティブフィードバック機構が働いている一方、性周期やメラトニン分泌に代表されるように局所局所において周期的なリズムを作り出すためにポジティブフィードバック機構も働いている。

人間の気分も脳という器官に物理的存在を依存していることからして、気分にもそれを一定に保とうとするホメオスタシスとともに(主に冬や夜には活動度を低め、昼や夏に活動度を高める目的で)周期的に気分を変動させる機構が働いていることは想像に難くない。この二つの機構は誰しもが持っているものであるが、内因的にその二者バランスが後者に偏っている、すなわち周期的あるいは双極的な作用が高まっているとすれば、外からもたらされた気分の変化に対して微分的に気分が反応するため、わずかな外因による変化が想定以上に気分に対して大きな変化をもたらす可能性がある。

新型うつ病では例えば土日は気分が高まるが、月曜になると気分が落ち込むという例がよく取り上げられるが、これは外因が内面的な気分に反映しやすくなっているポストモダン的な社会背景と同時に、内因的に気分の周期性が亢進していることによる気分易変性が追いうちをかけた結果であると解釈することも可能であろう。

すなわち新型うつ病には内因的な因子と外因的な因子の両方が影響しているのではないかと私は考えている。新型うつ病の発症防止を考えた時に、内因的なものは生物学的基盤を持つためになかなか変えることができないが、外因的なものは社会さえ変わればいくらでも変えることができる。常識的に考えてもメランコリー型うつ病が減り、新型うつ病が増えた原因は内因的因子よりかは外因的因子の変化(時代背景の変化)によるところが大きい。

結局のところ、うつ病の増加で社会が困っているというならば、その社会自体を変えることが最も手っ取り早い解決策だと私は思う。すなわち「空気を読む」ことをやめる社会、少なくとも最善としない社会である。

事業仕分けは自称仕分けで自傷仕分け

私は政治と金の問題や普天間問題よりも「事業仕分け」を民主党の最大のマイナス点と捕らえています。こういう事業仕分けをしている限り、民主党は支持しませんし、悪口はいくらでも言ってやろうと思っています。

テレビだけ見ているアホ国民にはわからないと思いますが、事業仕分けに関係する分野の専門家に聞けば、各々の分野においてどれだけ仕分け人が事業そのものに対して(つまり無駄かどうかを考える以前に事業の捉え方として)幼稚園児並みの稚拙な議論をしている実態が見えてきます。

最もいい例がiPS細胞が開発されたからES細胞の研究はする必要がないという発言でしょう。再生医学に少しでも興味があって勉強したことがある人間からすると、これだけ乱暴な発言はもはやバカ判定されても文句の言えないレベルです。政治でたとえれば、「日本は大統領制だ」と言っているのと同レベルです。新聞の記事程度しか知識を集めず、予算の数字だけ眺めて机上の空論をこねくり回している民主党議員の姿が目に浮かびます。官僚でも新部署に異動すれば新しい分野のキャッチアップに必死になるというのに。

すでにわかりきっていることですが、戦後65年の歴史の中でこれだけ多岐で複雑になった国家事業を、たかが半年程度で仕分けられるはずもないのです。本来、こういうことは4年間かけてじっくりやるべきものでしょう。

とりあえず予算の無駄を省きたいならば、各事業に一律に減額をして、どうしても満額必要だというものに対して仕分け人を交えて復活折衝をさせればいい話です。かつてのシーリングに近いやり方ですが、そのほうが各省もやりたい事業を絞ってくるでしょうし、自主的に無駄を省く圧力にもなるでしょう。どんな小さなかつ有益な事業にも探せば必ず一定割合の無駄はあるのですから。

いい成功事例が国立大の運営交付金の段階的な削減です。これには地方国立大と都会の国立大の格差が広がったという批判もありますが、中にいる人間としては無駄な事務が削減されたという印象があります。無駄が削減された後は必要まで削減されてしまうので、研究教育の保護や格差の観点からいつまでも減額を続けるべきとは思いませんが、3〜4年ぐらいの期間限定なら十分にやってよかった施策ではないかと思います。(もっとも病院運営交付金の減額は診療報酬の低迷と相まって悪影響のほうが大きかったのですが。あと、一律削減はいいとしても、基準のよくわからない順位付けで削減額を変えるのはよくありませんね)

また、天下りの問題と事業仕分けの問題は本来切り離して考えるべきものです。天下りが関与していてもやはり必要あるいは有益な事業はあります。天下りが問題だからといって、国家にしかできない事業そのものを廃止してしまえば、しわ寄せを受けるのは国民自身です。今はあまり痛みを感じていませんが、来年以降じわじわとこの自傷行為に対する痛みを感じる人が増えるでしょう。事業仕分けに無条件に肯定的な人々はそんなことまでは考えられていないのが現状です。天下りがやられてわーいわーい、という程度にしか思っていない。自分もやられるんだということに気づいていない。そして後になって痛みに気づき、ごちゃごちゃと蒸し返す。小泉時代から国民は全く成長していないのです。